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「服従の誇り」について

わたしは最近、テレビを観る。何もかもがつまらなくて、以前はまるで見なかったテレビをしかたなく見たりする。

 * * *

「服従の誇り」という奇妙な言葉は、更迭された空幕長に関して特集したテレビ番組で聞いた。司会者も言っていたが、「服従」と「誇り」は相反していて不思議に響く。この言葉だけみてとれば、意味するものは思うに、マゾヒストとか、権力に盲順する人達とか、アメリカに対する日本とか、だろうか。受動的であることを受け入れた何か。服従そのものを誇りとすることは、いささかグロテスクに感じる。

この言葉は、自衛隊教育の心構えとして、標語のようなものになっているらしい。シビリアンコントロール、文民統制(不勉強なわたしはこの概念もはじめて聞くのだが)を前提とした我が国の自衛隊は、自らの意思で動くことができない。実力を司る軍部の暴走を禁ずるため、文民に「服従」しなさい、ということだろうか。

では、「誇り」とは?わたしが思うに誇りとは、自分が自分でいるために無くてはならないものだ。「誇り」を失ったときは、たぶん人は「服従」する。たとえば権力に、たとえば現実に、たとえば恐怖に、服従する。そこに誇りはない。誇りなくしては、とてもじゃないけど敵に立ち向かえないから、すべての人には、とりわけ戦場に立つ立場の人には、「誇り」は必要なのだろう。

愛する人を守るため、とか、正義のために!、とかなら「誇り」としてわかりやすいのだけれど、国家とか政治とかいった規模になると、いろんな思惑が絡み合って単純にいかない。それで、今の日本が立ちゆくためには国際協力のためにうんぬん、みたいな事情をくみ取って、なんとか誇りにするのだろうか。この手間だけでも、モチベーションは下がる気がする。

そのうえ、「服従」の対象が、気まぐれな上司だったり、ころころ変わる総理大臣だったり、誇りとすることに不十分な存在だったら、もはや「服従の誇り」は機能しない。わたしなら、うんざりして別の職を探したくなってしまいそうだ。

実力の暴走を止める安全スイッチのひとつではあるのかもしれないけれど、どうにもストレスが貯まりそうな言葉であるところに、背景の問題のややこしさを見た気がする。

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